2023年10月〜12月に大阪府京橋の文化施設、鶴身印刷所で開催されたJunAleさんのワークショップ「BORO SASHIKO 襤褸刺し子」のレポートをお送りする。
ワークショップは全3回の構成。初回は全員を対象に糸の通し方から綛糸(かせいと:糸を一定の大きさの枠に巻いて束にした物)の扱い、生地に針を刺した時の運指まで、刺し子を始める上で知っておくべき知識や道具の説明、2回目以降で初回に参加した方には「柿の花」や「麻の葉」など、メジャーな刺し子模様の刺し進め方の解説が行われた。初回と3回目に撮影・取材で参加した。
JunALE / 杉前潤
1983年生まれ
スポーツウェアデザイナーの傍ら、フリースタイル刺し子アーティストとして活動。
昔ながらの手仕事である刺し子をモダンにアップデートし、唯一無二のアートを生み出す。
スニーカーを中心に、一針一針丁寧に縫い込まれた独特の佇まいがある作品を作り続ける。
色褪せたスニーカーやくたびれたTシャツに古布やハイテク素材を掛け合わせ、多彩な糸が力技のように両者をつなぐ。
襤褸とは?刺し子とは?
「襤褸とは、擦り切れては布を当て刺し子を施し、何度も繰り返すことで幾重にも層になった布のことで、刺し子によって襤褸が生まれ、襤褸によって刺し子が生まれたのです。」初回のオリエンテーリングで配布された冊子の冒頭の一文だ。襤褸(ぼろ)と刺し子の関係性を、JunAleさんは、ひとつの制約された資源と環境の中で生まれた知恵の結晶、と定めた。現代では必要とされなくなった技術、と言葉を続けながらも、それらを実際に体感してもらうことで何かを感じて欲しい、というメッセージが参加者にまず伝えられた。
単に布を糸で縫って何がしかの模様を創り出すことを「刺し子」として伝えずに、襤褸と結びつけて語ることは、私たちに襤褸と刺し子を考える上での出発点を示してくれる。夥しい縫い目の集積とそれらが施された布たちは、それそのものが刺し子であり、また襤褸なのだ、と。
寿司に盆栽、浮世絵、俳句。あるいは漫画にラーメンなどなど、日本の風習や料理、メディアが英語圏で外来語としてそのまま翻訳されずに使われている例は多い。元々の定義から少し外れて各地で独自路線を歩んでいるものもあるが、日本でのそれらの成り立ちと辿った道筋、現在の立ち位置を、私たちは程度の差こそあれ、語る事ができる。
実は襤褸と刺し子も上に挙げたものたちと同じように、海外でBORO、SAHIKOとして認知され始めている。特に襤褸は2010年代以降にファッションブランドによってテキスタイルデザインに組み込まれたことなどの影響で、それ以前から襤褸を愛好し収集していたテキスタイルコレクターの枠を越えて知られるようになった。また、刺し子は襤褸が作り出された背景と共に、その技術として語られ、また一目(ひとめ)指しや模様刺しなどの技法によって作られる、パターンそのものを指す言葉としても知られている。近年は古いものを捨てずに補修して使う、という要素がサスティナブル性という嗜好に合致する点から、尊重すべき文化としても捉えられている。
オリエンテーションでは参加者の方に実物の襤褸を見てもらい、その質感や佇まい、それを構成している工夫を確かめてもらっていた。襤褸は急激なコレクター需要の高まりから価格が高騰状況にあり、実物に触れる機会が少なくなって来ている。
初回は襤褸の基本的な構造-布と布を重ね合わせて縫い留める-の最小単位として、A5サイズの襤褸を作った。参加者のこれまでの経験値によって出来上がりの進捗は異なるが、針を進めればそれだけ襤褸は「襤褸らしく」なる。
私たちは、今の日本での襤褸と刺し子の立ち位置についておおよそ何も知らない、と言って良い。なぜなら、それらは民俗的な資料や古民家から時折出てくる残地物、もしくは上記のような海外での受け取られ方を翻訳し語られるサンプルとしてしか姿を現さないからだ。古びた服は捨てるなりリサイクルに回すなりして手許を離れ、その席には新品が収まる。そのように今の制度と技術は巡るように組み立てられていて、襤褸も刺し子も生活に必要なものではもはや無い。
そんな状況の中で、襤褸の現物を紹介しながら糸と針の扱いを伝えることは、手にした針に通る糸や教材の布、そして身に纏っている服すらも、いつか「襤褸」にたどり着き得る、という連続した視点を参加者に与える。もちろん、それなりの「襤褸」に至るには人と布がそれぞれ経る時間の存在が必要になる。手縫いという作業は一足飛びに進むものではないし、おろしたての服に触れば分かるように、生地は体に接し続けなければ人に馴染まない。そして何よりも布と人体が分かち難くあるための絆のようなもの、異なる存在を共に在らせるための「よすが」が人の側になければ、針は止まる。
けれども、両者を繋ぎ止めるための方法と、そしてその果てにある物の存在をさえ知っていれば、それがくたびれたTシャツであれ何であれ、一時自分を守り飾った存在と、もう少しだけ歩める道筋を見い出す事ができる。シャツやスニーカーを繕うことから刺し子を始めたというJunAleさんも、もしかすると「襤褸」の中にそうした関わりを見たのかもしれない。
様々な模様-「刺し子」の階層
2回目以降は初回に参加した方を対象に、模様の刺し方の解説が行われた。「刺し子」と耳にしてまず思い浮かぶのが、庄内地方の庄内刺し子や津軽地方のこぎん刺しに代表されるような様々な模様。こういった模様刺しを、JunAleさんは装飾的に発展した刺し子の姿、と表現する。
刺し子が模様の形を取る、ということは、人と物の間に「見る」、「見られる」という関係性を生み出す。そこには審美の視点があり、また「お手本」という理想形がある。そして時として何らかの意味を含んだ、まじないの要素を持つ。
3回目のワークショップで紹介された「麻の葉」も、元々は平安時代ごろから仏教美術などに見られる装飾だったものが、後に子供の健康や長寿を助ける模様として衣服に施されるようになった経緯を持つという。これは、もともとは補強や修繕の目的だった襤褸と刺し子が、何らかの由来を持つ模様とそれに付随する「意味」を模倣して、それを理解する共通の認識を持つ集団の中で特定の形を示す縫い刺しのパターンを目指して行ったもの、と見る事ができる。
もちろん、全ての刺し子の模様が別種の媒体に表された装飾の模倣だ、と言うつもりは無い。模様の中には縫い目の重なりから自然に発生したものも当然あるだろうし、実際に針を進めていても、知らず知らずのうちに布に模様が現れていることはしばしばある。そして、全ての模様に対照をなす意味がある、ということもおそらく無い。「麻の葉」を例に取ると、そこには吉祥や魔除け、産衣の模様など時代の変遷に伴う意味の多層性が存在しているし、「崩れ麻の葉」や「網代組麻の葉」など膨大なバリエーションのひとつひとつに異なる意味があるとは考えづらい。
制作途中の「麻の葉」。一目刺し(ひとめざし:一定間隔のなみ縫いだけで縦、横、斜めと直線的に刺すやり方)で作れる模様で、針を進めていくうちに三角形や六角形が次々と現れる。この形を基本にして様々な発展系の「麻の葉」が生まれた。
こちらは「柿の花」。これも一目刺しで作れる模様で、縦と横だけで構成されているため「麻の葉」より模様の再現性が取りやすい。実を沢山つける柿の習性になぞらえて「五穀豊穣」の意味が込められてきたらしい。
重要なことは、何らかのきっかけで生み出された縫い刺しのパターンが、時間や空間を越えて認識され、倣われるという行為を経て現在まで伝わっている、という点だろう。そこには、布と人という襤褸と刺し子の原始的な関係性とは階層の異なる、指示と手順によって「再演」される刺し子の姿がある。
刺し子の「お手本」を倣うことにおいては、その再現性や由来、込められた意味などが大切になる。なぜなら意味とそれを表すパターンの視認性が正しく共有されなければ、その刺し子はその場で「再演」されないからだ。「お手本」を突き詰め矮小化していくと、指示書と材料がパッケージされたキットになる。模様を再現する刺し子セットやパターンブックなどは、この階層に属しているものと言える。
では、襤褸と刺し子のワークショップで行われる模様刺しの解説とは、何を意図しているのだろうか?そこでは、伝統的な刺し子模様をルーツ(布と人の関係性や、襤褸と刺し子の始まり)から捉え直すことで小さく分解し、参加者の創意で再び組み立て直すことが、ひそかに期待されているように思える。
JunAleさんが普段制作している刺し子が施されたスニーカーやTシャツには、古裂だけではなく、化学繊維の布や釣り糸、皮革製品用の糸など、いわゆる「刺し子」で使われる布や糸の枠を越えた素材が登場する。そして、それぞれの特性を観察し吟味した上で組み合わせた結果として、生み出されたものが、いわば「勝手に」ユニークさやオリジナリティを帯びる。そうした働きを、襤褸と刺し子というフィールドの上で針と糸という手に取りやすい道具を用いることで、ワークショップの参加者に体験してもらいたいのではないだろうか。
上に書いたような刺し子模様の要素-「見る」人と「見られる」布という関係-は、襤褸と刺し子の始まり-布の補強というシンプルな目的-から一歩進んだ、終わることのない創る喜びへと私たちを導き、そして虜にしていく。そのエッセンスに触れられるからこそ伝統的な模様たちは今なお「再演」され続けているのだろうし、複雑に組み合わされた糸目をなぞる視線は、かつて同じ行為をしたであろう人々へ思いを馳せさせる。
そういえば「麻の葉」も「柿の花」も刺し進めるうちに、ある時から柄が浮かび上がる感覚を味わう事がある。ひょっとするとそれは、模様に秘められた魔力のようなものに触れている瞬間なのかもしれない。そしてそれは、糸が布へ刺される度に、幾度となく時を越えて現れてきたものなのかもしれない。
終わりに
2回に渡って取材させてもらったワークショップには老若男女を問わず、多くの人が参加していた。経験の差こそあれど、黙々と進められた針と糸で組み合わされた布たちの表情はどれも美しく、糸目の取り方ひとつひとつや、布の合わせ方に個性が溢れているようだった。
いつだったかJunAleさんが話してくれた「刺し子に終わりはない。」という言葉を、今回はまた違った意味に捉えることができた。今までは補修の延長線上で時たま現れる柄が見せる偶発性や、刺せども刺せども完成したと感じられない刺し子という行為の連続性のなかに「終わらなさ」を見ていた。けれど、改めて伝統的な刺し子模様に触れ、また考えることで、人を惹きつけてやまない、模様に潜む力の一端を知ることができたように思える。それは多分、いつまでも消えることのない「刺し子」の本質なのだろう。